ボディビルという競技には、人によってさまざまな価値観や目標があります。
筋肉の大きさを追求する人、ステージでの順位にこだわる人、あるいは健康やライフスタイルとして楽しむ人。それぞれの目的があってよいと思います。
その中で私がここ最近、強く意識するようになったのが「絞りの美学」です。この「絞り」というのは、単に体重を落とすことや細くなることではありません。
極限まで体脂肪を削ぎ落とし、筋肉の輪郭を浮き上がらせる。その過程と仕上がりに、私は特別な価値を見出すようになりました。
第1章 「絞り」とは何か
「絞り」とは、ボディビルにおいて体脂肪を可能な限り落とし、筋肉のディテールを極限まで表現することを指します。血管やカット、ストリエーションが鮮明に浮かび上がった体は、単なる「痩せている」状態とはまったく別物です。そこには厳しい食事管理、有酸素運動、そして強靭な精神力が求められます。
私がこの「絞り」を強く意識しはじめたきっかけは、過去の大会経験でした。
筋量やポージングで勝てなかった大会でも、絞り切ってステージに立ったときには観客の反応が明らかに違ったのです。「身体の完成度は大きさだけではなく、どこまで仕上げたかで決まるのだ」と実感した瞬間でした。
その体験以降、順位や筋量だけではなく「どこまで自分を削ぎ落とせるか」という挑戦そのものに、私は美学を感じるようになりました。
第2章 価値観の変化 ― バルクから絞りへ
過去の私は、とにかくバルクのある選手に憧れていました。大きな筋肉をまとい、ステージで圧倒的な存在感を放つ選手たちに魅了され、自分もいつかはそうなりたいと追いかけていたものです。
しかし、ここ数年でその価値観は大きく変わってきました。東京クラス別ボディビル選手権などを観戦していても、今では重量級の選手よりも、60〜65kg以下級やマスターズの選手に強く惹かれるようになったのです。彼らの凄まじい「絞り」は、バルクとはまた違った迫力と美しさを放っています。
バルクというのは、正直なところ遺伝子や骨格といった先天的な要素が大きく影響し、努力では埋めきれないハンデがどうしても存在します。しかし、絞りに関しては、自分自身の努力やセルフコントロールによって、誰もが挑戦し、結果を出すことができる領域です。
だからこそ、極限まで絞り込まれた選手を見ると、その身体の裏にある日々の努力や葛藤、さらにはその人の人柄や人生までもが伝わってくる気がします。単なる「身体の仕上がり」を超えた、人間そのものの表現だと感じるのです。
そうした価値観の変化があったからこそ、私は今年の東京選手権において「絞り」をテーマに仕上げていくことを決めました。
自分もまた、見る人の心に「この人はここまでやり切ったのだ」と響かせられるような選手になりたい。その想いが、私のボディビルへの姿勢を大きく変えていったのです。
「バルクより、心で魅せるビルダーでありたい」――その想いが、今の自分の原点です。
第3章 なぜ「絞り」を美学と考えるのか
世間一般的には、減量に対して「欲望に打ち勝つストイックさ」や「我慢すること」に美学や尊敬を見出す人が多いように思います。確かに、空腹や誘惑に耐え抜く姿勢は立派なものですし、そこに価値を感じる人が多いのも分かります。
ですが、私自身は少し違う感覚を持っています。「絞りの美しさ」とは、痛みに耐えることそのものではなく、やるべきことを淡々と積み重ねる姿勢に宿ると感じています。誰かに見せるためではなく、ただ自分の決めたことを誠実に守り抜く。その“日々の在り方”こそが本当の美学だと思うのです。

つまり、「ストイックな姿」が美しいというより「それを(当たり前のように)静かに淡々とやり抜く姿」に美を感じるという言い方が近いかもしれません。
「絞り」という行為は、単に体脂肪を減らすことではありません。それは“自分という存在をどこまで研ぎ澄ませられるか”という、ひとつの芸術的な挑戦だと思っています。
極限まで身体を仕上げていく過程では、常に自分との戦いが続きます。空腹、疲労、眠気、焦り。派手さはなく、日々の小さな選択の連続です。だからこそ私は、絞りを「苦しみに耐えること」よりも、やるべきことを淡々と積み重ねる姿勢として捉えています。
バルクアップももちろん大変です。高重量を扱い、筋肉を限界まで追い込むトレーニングを続けることは並大抵ではありません。しかし、その辛さは主にジムの中での“1〜3時間”に集中しています。言い換えれば、「ジムにいる間だけ戦えばいい」側面もあるのです。
一方で減量は違います。向き合うのはジムの中ではなく、それ以外のすべての時間です。
仕事中、帰宅中、テレビを見ているとき、街を歩いているとき──どんな場面でも、食欲や誘惑が次々と襲ってくる。そこで必要なのは、痛みに酔うことではなく、日々の選択を正しく積み重ねる規律です。
つまり、減量とは「長時間の苦痛に耐え続ける芸術」ではなく、小さな正解を淡々と積み上げる技芸だと私は考えています。派手なドラマがなくても、静かな誠実さを貫くこと。それ自体が「絞りの美学」だと思うのです。
バルクと絞りは「バッティングと守備」のような関係
また、ボディビルの「バルク」と「絞り」の関係は、野球でいえば「バッティング」と「守備」、柔道でいえば「立ち技」と「寝技」のようなものだと感じています。
よく「バッティングはセンス、守備は努力」あるいは「立ち技はセンス、寝技は努力」なんて言われるものですが、前者は生まれ持った才能や運動センスなどが問われる一方で、後者は地味な反復練習の繰り返しによって後天的に磨き上げることができる領域と言われるのがその所以です。
それはボディビルも同じで、バルクは遺伝子や生まれ持った骨格、筋付着位置といった「素材」の影響を強く受けますが、絞りは努力とコントロール次第で誰にでも到達可能な世界です。だからこそ、絞り切った選手には“人間の努力の物語”が宿り、その身体からは時間と覚悟の重みがにじみ出ているように感じます。
そして、絞り切った身体には“努力の軌跡”が刻まれています。どれだけ自分を律し、どれだけ誠実に日々を積み重ねてきたか。その過程が血管の一本一本や、カットの深さとなって現れる。それを見た瞬間、「この人は本気で生きている」と感じるのです。
だから私は、「絞り」を美学として捉えています。それは“人間が努力で到達できる究極の表現”であり、“心の誠実さの証明”でもある。
筋肉の大きさや順位よりも、「やるべきことをやり切った」という一点にこそ、最も深い価値がある。私にとっての絞りとは、「自分に誠実であり続ける覚悟の形」なのです。
第4章 絞りを通して得た人生の教訓
絞りを突き詰めていく中で、私はあることに気づきました。ボディビルの減量は、派手な根性論ではなく、ごく普通の日々に誠実であり続ける態度だということです。
減量では、思い通りにいかない日が必ずあります。体重が落ちない。鏡を見ても変化が見えない。心が揺れる。そんなときに大切なのは、「結果が見えない日にも、やるべきことをやる」ことです。
ここで私が学んだのは、強さとは我慢ではなく、誠実さであるということ。痛みに耐えること自体が目的ではありません。計画を守り、過度に盛らず、抜かりなく積み重ねる。その静かな姿勢が、最終的に美しさを形づくるのだと思います。
また、他人と比べず、昨日の自分にだけ勝つこと。極限状態の中でも心を乱さず、自分のペースを保つこと。そうした精神のコントロールは、仕事や人間関係など日常の場面でも強い効力を発揮します。
減量の終盤、体脂肪が限界まで落ちたときに感じるあの研ぎ澄まされた感覚――それは、身体の美しさ以上に「心が澄んでいく」ような感覚でもあります。欲を削ぎ落とし、雑念を取り払い、ただ一つの目標に向けて誠実に生きる。この状態こそ、私が「絞りの美学」と呼ぶものの本質なのかもしれません。
だから私は、これからもこの“絞り”を通して、人としての深みを磨いていきたいと思っています。絞り切った身体は一時的なものかもしれません。ですが、その過程で得た規律と誠実さは、一生の財産になると信じています。
第5章 まとめ ― 絞りとは「生き方」そのもの
ボディビルにおける「絞り」は、単なる減量テクニックではありません。それは、自分の限界と向き合い、己を律し続ける“生き方”の象徴だと思います。
バルクが才能や骨格といった先天的な要素に左右される部分があるのに対し、絞りは努力・覚悟・精神力といった「自分で積み上げる力」で勝負できる世界です。だからこそ、絞り切った身体にはその人の人生が宿る。
そして、絞りを通して学んだことは、日常にも通じています。思い通りにいかない時こそ、自分を信じること。苦しい時間を、静かに受け入れて前に進むこと。その積み重ねが、やがて自分という人間を形づくっていく。
私にとって「絞りの美学」とは、身体を削ぐことで心を研ぐこと、そして努力を美しさに変えることです。
今年の大会では、その美学を体現する覚悟でステージに立ちました。結果がどうであれ、「やり切った」と胸を張れる自分でいられること――それこそが、ボディビルという競技の本質であり、私がこの道を続ける理由です。
👇究極の「絞り」を実現する方法は以下で紹介しています。参考にどうぞ!
実際に私が大会前に実践した食事・有酸素・メンタル調整法を、具体的な数値付きで解説しています。
【ボディビル哲学シリーズ】
こちらではボディビルを通して人生とは何かを考える「哲学」シリーズを展開しています。
次回は「結果主義と人生哲学」について考察予定です。お楽しみに!
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